先日、ある地方都市で牧師をしている知人を訪ねました。
彼は、大学でキリスト教神学を学んだものの、聖職者になるつもりはなく一般企業に務め、私が知り合ったころは、お互いに人事関係の仕事をしていました。
企業どうしの情報交換の場で会うたびに、「今、上からの方針でこんな人事制度の提案をしている」などと話をしてくれました。
しかし、本人が会社の方針に共感・納得して提案しているようには見えず、大変だな~と思うと共に、彼を励ますこともありました。
お互いの職場での立場・役割が変わり、顔を会わす機会がなくなったある日、「彼が退職した」との話が伝わってきました。
心のどこかで納得する部分がありましたが、退職理由が「牧師になると言っている」と聞き、驚くと共に、そういう選択をした彼をうらやましく感じたものです。
彼が神学校を卒業、補教師を経て牧師按手、牧師となったころに、再び連絡を取るようになり、彼を訪ねることになりました。
主日礼拝に参加し、礼拝をすすめる彼を見てびっくりしました。
彼の体から人柄があふれ出し、会堂の空気がすごく柔らかいのです。
明るい顔、堂々とした声、そして不器用な身のこなし(これはどうにも変りませんね・・・)から、今の働きに、喜びを覚えていることが伝わります。
教派の神学校では、英語は言うに及ばず、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語と語学学習は相当厳しく大変だったようですが、夢を叶えた彼の姿がそこにありました。
牧師になる決断を奥様に話したとき、「稼ぎ手がいなくなって、神学校で学ぶお金のかかる子どもが一人増えるみたいで大変だけど、なんとかなるでしょう」と背中を押し、生活を支えてくれたとのこと。
彼は単身赴任で教会に寝起きし、勤め人時代からは収入も激減していますが、「あの時自分はこれからどう生きるのかを真剣に考え、選択してよかった」と語ります。
彼の上質世界に、何を入れているだろう? 主語は「私」になっているだろうか?
“生活のため”や“世間の目を気にして”など、意識・無意識に関わらず願望を押さえつけたり、自分の思いが分からなくなっていないだろうか?
自分の生き方を見つめ考えるのは大事・・・でも、何が出てくる? 現実とのギャップで空しくなってしまわないだろうか?・・・
といろいろと考えさせられました。
しかし、今、彼の生き方を改めて考えてみると、周りの人のものの見方に左右されず、本当にやりたいことや好きなことに沿って生きることこそ、自分の人生を大事にし、幸せに生きることになるのではと思えるようになりました
だから、そんな生き方を選べば、いろいろ困難なことが待ち受けていても、それを乗り越えて周りの人も巻き込んで、幸せの輪を広げていけるのだと思います
ということで、幸せに生きるとはを改めて見詰め直すきっかけを与えてくれた出来事でした
2024.12.3 by H.Taniguchi